火炎と水流
―邂逅編―


#1 火事だって? うぎゃっ!



夜。街は眠りについていた。そして、その外れにある小さな公園も……。闇の中に浮かぶジャングルジムもすべり台も、まるで、黒い巨人のようにそびえている。ベンチには、風に吹かれて木の葉が1枚ヒュルルンと舞い降りて眠った。このところの水不足で、夜になると噴水の水も止められていたので水音もしない。

空は薄く濁った煙に包まれて先が見えない。だから、ぽつぽつと並んだ街灯の明かりだけが、ぼんやり浮かんだUFOの列みたいに不気味な影を落としていた。

と、その時。

「火事だ!」

突然、誰かの叫び声がした。表通りでは、しきりにサイレン音を響かせて、消防車が何台も通り過ぎて行く。数人の人影が、公園の静寂を破るようにバタバタと駆け抜けて行った。
先程から漂っていた煙は、どうやら、その火事の煙であったらしい。
「何? 火事だって?」
いきなり、噴水の水の中からチャポンと顔を出した少年が言った。そして、頭だけ覗かせてキョロキョロ辺りを見回している。周囲には誰もいない。

「よっしゃー!」
叫ぶなり、彼は、ザバーッといきなり水の中から飛び出した。おかっぱ頭で見た目は12、3才のこの少年は、しかし、何も服を身に着けていない。それで、彼は慌てて手近の花壇にダッシュすると、茂みに突っ込んだ。そして、ガサコソと手早く洋服を着ると、ヨレヨレのスニーカーをつっかけて出て来た。
「ヘン。こういう時のために用意しといてよかったぜ。ったく。人間ときたら、まだ新品みてーな服をポイポイ捨てちまうんだからな。もったいねーったらありゃしねえ。でも、まあ、そのおかげで、おいらは助かっちまうんだけどな」
そう言って、少年はニッと笑った。

「そんじゃあ、一っ走り、人助けにまいりましょうか? 待ってろよ! このおいら、谷川水流(たにがわ すいりゅう)様が行きゃあ、どんなすげー火事だって一消しよ」

そう言って、水流は、サッと風のように駆け出した。
そう。この少年、谷川水流は人間ではない。彼は、水を司る妖怪、いや、精霊(?)なのだ。普段なら、ずっと山奥の清らかな川の流れに住み、その姿は水そのものでしかない。
ならばなぜ、こんな都会の公園の、しかも、噴水の中にいたのかって? それは、彼自身が人間に憧れ、常に人間の役に立ちたい。友達が欲しい。そして、あわよくば自分が人間になりたいと願っていたからだ。それで、彼は時々、こうして都会の水場に潜み、人間とお近づきになれる機会をうかがっていたのである。
そして、今夜、チャンスが来た。
水流は、その名の通り、水の力を自由自在に操る能力を持っている。その力を使えば、火事なんてチョチョイと簡単に消すことができるのだ。
水流は、有頂天になって走り続けた。

燃えているのは、古い一軒の家だった。
それを燃え盛る炎の龍が這い回り、なめつくし、踊るように天へ天へと昇って行くのだ。消防隊員達は懸命に放水し、何とか火を消そうと努力していたが、まるで効果がなかった。それどころか、そんな彼らの努力を嘲笑うかのように、火はメラメラボウボウと燃え続けた。集まって来た野次馬達も、そのあまりにすさまじい炎に圧倒され、恐怖で身動きがとれずにいた。
「何てこった……。このままでは何もかもみんな燃えてしまうぞ」
疲れと絶望が人々の心を支配した。が、消防隊員達はあきらめない。何度跳ね返されようと砕かれようと放水を止めなかった。
白い水の細いラインが、幾筋も赤い炎の怪物を襲う。だが、巨大な怪物はそんなもの始めから眼中にないように、まるで、よせつけなかった。

「ダメだ。全然歯が立たない……」
が、それでもあきらめる訳にはいかないのだ。野次馬達がざわめき、ささやいている。
「聞いたかい? あの火の中に、逃げ遅れた人がいるらしいって」
「ああ。かわいそうに……しかし、この火じゃ、とても助からないだろうな」
誰もの心が絶望的に暗くなり、消えない炎をうらめしく見つめた。

「ハハン。聞いたぞ。聞いたぞ。逃げ遅れた人がいるだって? これぞ、まさしくチャンス到来! このおいらの出番ってもんじゃねーか」
集まっている人々の後ろから、水流は、燃える炎の怪物を見た。
「あの火、いくら水をかけても消えないんだってよ」
野次馬の誰かが言った。それを水流が聞きとがめる。
「消えないだって?」
少年は再び、炎を見てハッとした。鬼だ。燃える炎の陰影の中に、ハッキリと見える。
「こいつは、ただの火事なんかじゃねえ。まさしく、妖怪の仕業じゃねえか! これじゃ、人間にたちうちできる訳がねえ。待ってろよ。今、おいらが助けに行くからな!」
そうして、水流は人込みをかき分け、前に出ようともがいた。

「おい、ちょっとそこ通してくれよ。おいら、助けに来たんだぜ」
「こっちは危険だ。子供は、早くお家に帰りなさい!」
「何だい。何だい。おいらを誰だと思ってんだよ? 天下の名水! 谷川水流様だぜ!」
が、誰もそんな少年のことなど無視した。皆、この怪しい炎に魅せられていたのだ。誰も動こうとせず、少年に道を空けてくれる者もいなかった。
「もう! まいっちゃうな。このおいらに任せておけばバッチリコッチリコンコンチキなのにさ。そんでもって、おいらがカッコよく火に飛び込むだろ? そいで、逃げ遅れた美人をこう小脇に抱えて華麗に助けるんだ。
その美人ちゃんから『まあ! 水流君てステキ! 命の恩人だわ。ぜひ、わたしとデートしてください』なーんて言われちゃってさ。みんなから、悪い妖怪をやっつけて火事を消してくれてありがとう! なんて感謝されて。ぜひ、社会を救ってくれた英雄としてテレビに出てください。なーんて。そんでもって、おいら、かわいいからアイドルデビューなんかしちゃって引っ張りだこ。そうなったら、どうしよう? うふん。おいら、困っちゃう!」
と、ブツブツニヤニヤつぶやいている。無論、そんな少年のふざけた妄想など誰も聞いてなどいない。みんな、それどころではないのだ。

きゃっ! とどこかで悲鳴が上がった。
「崩れるぞ!」
家の全体を炎が飲み込み、ミシミシバリバリと建物がきしみ、悲鳴を上げている。
「うわーっ!」
消防隊が一斉に退いた。紅蓮の炎が膨れ上がり、人々に襲いかかろうとしたのだ。
「しまった!」
水流はあせり、人の波をぬって前に出た。
「よし! 待ってろ。今、行くぞ!」
逃げまどう人々にもみくちゃにされながらも、水流は最前列に出ると、安全のために張られたロープをヒョイと跳び越えた。
「あっ! コラッ! 待ちなさい! そっちは危険だ!」
いきなり飛び出した少年を警察と消防隊員が慌てて止めようとしたが、少年は、燃える怪物の口の中へあっと言う間に消えてしまった。
野次馬の間からどよめきや悲鳴が上がったが、誰もなす術を持たなかった。

そんな皆の心配などおかまいなしに、当の水流は、炎の家の中を陽気に進んで行った。
「やいやいやい! 一体、どこにいやがる? さっさと出て来い! チンケな放火魔ヤローの不良妖怪め! おいら、谷川水流様が成敗しに来てやったんだ。観念して姿を現せ!」
既に、家の中は壁も天井も何もかも炎に包まれていたが、水流は、まるで気にしない。彼の周りには、どんな炎も届かない。水蒸気のバリアが少年の体を包み、彼を熱から守っているのだ。
が、相手の反応はない。
「チッ! 恐れをなしたか? ハッハッハ。そりゃそうだろうな。炎妖怪じゃ、どうがんばっても水使いのおいらにかなうワケねーもんな。ヘヘンだ。バーカ。明後日来やがれ」

と、その時、グォーッと炎の手が伸びて、水流の行く手をはばんだ。一瞬、妖怪の仕業かと思って跳び退いたが、それは、単に天井と壁が激しく燃えて、そこに掛けられていた絵が壁ごと崩れ落ちたのだとわかった。
「フーッ。おどかしやがって。この分じゃ、そう長くは持たねーな。早く見つけねーと」
水流は、燃えるその絵を跳び越えて、リビングへ入った。
そこもまた、火の海だった。大きな観葉植物の鉢は割れ、ガラスのテーブルは砕け、家具も天井も黒焦げで、黒鉛と火の粉がパラパラと降り注いで来た。水流は燃えるソファーを跳び越えて、奥へ続く台所へと迫った。
そこで、足を止める。人だ。炎の向こうに男の後ろ姿がのぞいた。
水流は、その人物を助けようとして飛び出した。が、ハッとして立ち止まる。
男は平気で炎をまとって立っているのだ。

「ちがう。こいつは人間じゃねー」
水流はキョロキョロと辺りを見回した。すると、炎の男の更に向こう、大きな食器棚の前に人が倒れているのが見えた。その男の服のあちこちは燃え、顔はすすけていたが、まだ、もぞもぞと手を動かしている。生きているのだ。
「そうか。逃げ遅れた人間ってのは、あの人だな」
水流は確信した。そして、手前に立っているこの男は……その腕から肩を炎に包み、倒れている人間に容赦なく炎を浴びせかけようとしている。
「ちくしょー! こいつが炎の妖怪なんだ。しかも、倒れている人間を襲うなんて……! 卑怯な奴め! 許せねーっ!」

言うと、水流は飛び出し、男の背中にしがみつく。
男はギョッとして、一瞬バランスを失い、炎の矛先がそれた。が、無造作に水流を払い落とすと、また炎の腕を人間に向けた。強い妖気を含んだ炎が、倒れていた男の全身を包み、男は悲鳴を上げてのたうち回った。
「くっそぉ! そうはさせるか!」
水流はそう叫ぶと、天井から大量の水をドバッと降らせた。当然、火は消え、炎の男は呆然とした。そして、人間の方もまた、何が何だかわからずに、ゼイゼイと息を切らせてこっちを見ている。
水流はニッコリと手を振ってやった。おいらが助けてやったんだぞ、と言わんばかりである。男は警戒しながらも、ソロリソロリと起き上がった。

「貴様、何者だ?」
それまで黙っていた炎の男がすさまじい形相で水流を見た。が、水流は人間の男に言った。
「ここはおいらに任せて、早く逃げな!」
が、人間の男は困惑したように水流と背後の炎の男とを見比べている。逃げようにも、男の周りはすべて炎でふさがれているのだ。
「そうか。ならば、よしっ! こうしてやる」
水流が再び水を噴き出した。
「バカがっ! やめないか!」
炎がそれをさえぎろうとする。が、その男が放った炎を水流はこともなげに消した。
「ヘーンだ。どんなもんだい。水流様にかかれば、こんな火事なんかヘでもねーんだ」
辺り一面水浸しにして、水流は得意満面である。天井からも男からも、水滴がポタポタしたたっている。人間の男は呆然としていた。
「よし! 今のうちだ! 逃げろ!」
と、水流が右手を上げて出口を示した。勝手口だ。それを見て、人間の男はニッと不気味に笑うと、裏口へと走り出した。すごい速さだ。
あっと言う間に見えなくなった。

「くそっ! 待て!」
炎の男が、その後を追おうと飛び出した。が、
「そうは行かねー! おめーは、おいらと勝負するんだ」
水流が立ちはだかった。
「うるさいっ!」
炎の男はバンッと水流を突き飛ばし、慌てて裏口の扉から外に出た。が、そこにはもう男の姿はなく、どっちへ行ったのかさえもわからない。炎の男は呆然と夜気を見つめていた。
「へへ。どうやら、うまく逃げられたみてーだな。あの人。よかった。よかった」
水流が後からやって来てのんびりと言った。
「よかっただと?」
男の肩が震えていた。
「貴様のせいで……! せっかく捕らえたものを……!」
男は向き直ると水流を激しくにらみつけた。そのただならぬ形相に、さすがの水流も一歩退いて男の顔を恐る恐る見上げた。

「な、何なんだよ? 大体、おめーが悪いんじゃねーか。罪もない人間に悪さなんかしやがってさ。おめーみてーな不良妖怪がいるから、おいら達、心のやさしい妖怪、いや、精霊が人間達から理解してもらえなくて困ってるんだぞ!」
「罪もない人間だと? あの佐原砂地さはら すなちが……!」
「そうさ。へえ。あの人、砂地さんて言うの? ホントによかった。おいら、何ていいことをしたんだろ? やっぱ、おいらっていい奴?」
そう言って笑う水流を男は思い切り殴りつけた。

「テメー、何しやがる! せっかく、心の広いおいらだから、今回は犠牲者も出なかったことだし、穏便にと思ってやったのにさ」
「生憎だったな。小僧! おれは、今日、すこぶる気分が悪いんだ」
「ああ。そうかい。だがなあ、気分で人間を襲われたんじゃ迷惑なんだよな! 
よし! こうなったら、とことんわからせてやろうじゃねーか。このおいらがさ」
「フン。貴様ごときに何ができる? このザコ妖怪が……!」
男がフフンと鼻で笑った。言われて水流はカッとなって怒鳴った。
「ザコ妖怪だって? ふざけんな! おいらは谷川水流。そんじょそこらのザコ妖怪とはちがうんだぜ。兄さんよ。おいら、こう見えても清く美しい谷川の流れを守る精霊なんだ」
「なら、大人しく山奥にこもってな! 山ザル小僧」
「やいやいやいっ! 言うにことかいて山ザル小僧とは何だい? おいら、もう怒ったぞ! こうなったら、テメーなんか徹底的につぶしてやる! 所詮、炎使いのおめーじゃ、水使いのおいらにはかなわねーんだからな。思い知れっ!」

と、いきなり、男の頭上から、ザバッと水をブチまけた。男の髪も服もビショ濡れになり、その足下には、大きな水たまりが広がっていく。
水流は、それを見てニヤニヤ笑った。が、男は全く動じてなどいない。それどころか、微かな笑みさえ浮かべている。
「な、何だよ? おめー、おかしくなったんじゃねーの?」
水流が言い終わらないうちに、サッと炎の腕が伸び、火炎を放った。が、水流は余裕でそれをかわし、またもや水を呼んで、消火した。
「バッカだな。何度言ったらわかるのさ? 火は水に勝てやしないんだ。決してな」
が、男は薄く笑んで言った。

「そいつはどうかな?」
言うなり、男は右手を振った。軽く、しなやかに……。すると、たちまちその足下から熱くねっとりとした炎がせり出して、水流を取り巻いた。

「な、何なんだ? この火は?」
一瞬、たじろいだ水流だったが、すぐに気を取り直すと言った。
「フン! たとえ、何の火だろうと火は火じゃねーか。水をかけりゃおしまいよ」
「そいつはどうかな? 気をつけろよ、小僧。火傷しないようにな」
赤くドロドロしたものが、少年の周りを固め、その火と煙に水流はむせた。
「ゲッ。熱い……! 何だ? この異様な熱さは……! み、水を呼ばなきゃ……」
が、僅かに触れた水は、たちまち蒸発し、せり上がってきた炎の壁は、水流を圧迫した。
「し、信じらんねえ。この火は何だ? おめーは、一体……?」

「おれは時岩火炎ときいわ かえん。マグマと炎を操る者」
「マグマだって? ちくしょー!」
あまりの高熱に、水流があえぐ。
「どうだ? 小僧。今だったら、泣いて謝れば、許してやらないこともないぞ」
と、火炎が言った。
「ケッ! 誰が謝ったりするもんか! 悪いのは、おめーの方なんだからな! 人間をいじめるなんて、サイテーじゃねーか。人間は、何の能力もねえ、弱い生き物なんだぞ! おいら達が守ってやらなきゃ、何もできねえ。おいら、弱い者いじめは大っ嫌いなんだ!」
「奴は、砂地は人間ではない。それに、人間はおまえが言う程、無能ではないんだがな」
「何……?」
「それに、おれも弱い者いじめは好きじゃない。今なら、まだ助かるぞ。謝ればな」
「フン! 誰がおまえなんかに……! それでなくたって、おめーは、こんな火事起こして人間に迷惑かけてんじゃねーか。消えない火だって? 街中燃やす気か?」
「この火は結界だ。外に燃え広がることはない。用が済めば消えるさ」

「るせーっ! おめーの言ってることなんか、おいらには、ちっともわからねえ! いや、わかる必要なんかねえ!」
そう言うと水流は、自ら原型である水になり、うねり、渦巻いて炎の壁に挑んだ。
「バカが! よせ!」
火炎が止めようと僅かに壁を除けた。が、水流は、四方を囲まれ、熱さにもがいていた。もはや、人の姿を保つこともできず、原型である水に戻ったものの、水はあっと言う間に沸騰し、蒸発していく。
水流の水は、細く長く渦巻いて、まるで龍のように暴れ、グルグルと壁に突っ込んで行った。
「ちくしょー! こんな壁なんか突き破ってやる!」
「無駄だ! よせ!」
火炎の叫びを無視して、水流は壁に突っ込んだ。

「うぎゃあーっ!!!」
激しい衝撃と共に壁が爆発し、水滴が飛び散った。炎が消え、水流も消えた。
「バカが……。早まったことを……」
火炎はひとり、その場に立ちつくし、ただ、天井から落ちる水滴を見つめていた。